何になるために生まれてきたか




BOURGEOISをようやく読了。

購入してから読むまでに時間がかかったのはまたいつか。


ようやく読んだなかに、過去に自分が散々悩んだ見出しがあった。


この題材に度々悩んでいた頃、道徳の時間に先生がみんなで考えてみようと言った。


当時、人とは違うものに憧れていた自分は小説や漫画ドラマ映画と物語にどっぷり浸かっていて感化された自分の正解はこれだと信じていた。


誰が為に動く人。それができなければただの肉の塊。


激しく厨二を発揮している言葉使い。

実際にはこの内容で、用紙に極小文字で書き上げた。


誰かのために何かすることに悪い意味はないと信じていたし、自分本位で動くことは悪だとすら思っていた。


討論タイムの前に何人か発表するなか、熱血でルーキーズの佐藤隆太みたいな担任(野球部顧問)から友人が指名された。




友人「人は幸せになるために生きている」




頭を殴られたような気分だった。


自分は何をこねくり回して考えていたのか、こんなにもシンプルな答えがあるのかと。

友人は本当にこれだけを用紙に書いていた。

同時に自分の中の正解が崩れた。


幸せになるという言葉だけだと自分本位な気もするけど、この「幸せ」のなかには自分だけじゃなく、他も含まれる。

人との関わりを切り離せない世界で家族や友人の幸せは私自身幸せな気持ちになる。それを先日体験した。


従姉妹が出産し赤ちゃんを抱っこさせてもらう機会があった。「おめでとう」「ありがとう」このやり取りは従姉妹と私の会話のなか周りにいた親戚がにこやかに笑っていた。まさに幸せが連鎖した瞬間だった。



そんな当時を思い出す問いに北斗くんが答えていた。


このブログはまさに松村北斗の存在で記憶と感情が動いて書いた。でもなんとなく違和感がある。


北斗くんの雑誌を買い、読むと決めたのは自分。キッカケをくれたのは北斗くんだけど、感情を発したのは自分。


質問の意図は大成を意にしてる部分もあると捉えているけど、ただ他のために生み出すんじゃなくて自分自身のために生み出してほしい。あくまで主は北斗くん自身であってほしい。


大きく言うと誰かのために幸せでいるじゃなくて、自身のために幸せになってほしい。


そこまで身近な人やファンを想う優しさも魅力だけど、こちらを気にせずとも自由に生きて。


たまに慕う顔して鋭利な刃を向けてくる人がいるかもしれない。評論家のように理路整然としながら泥を投げてくるかもしれない。それはアドバイスじゃなくて、刃だし泥に変わりはない。危険なものや不要なものを目にしても近づかず、目に入れなければいい。


必要なものはくるべき時に、現れる。

 

決めるのは北斗くん自身。








ここ数年個性強めと評される北斗くんが松村北斗を楽しんでいるように見えてから、私の目標は自分を楽しむに変わった。


自分の幸せがそれと気付いたから。


人の価値観とは違ってチクリと言われることもあるけど、甘えなんかじゃなくて幸せのために生きてるから。


決めたのは、自分。




一秒でも長く幸せでいて



いちファンの勝手な願い。


北斗くん大好きです。






BOURGEOISさん素敵なインタビューありがとうございました。


「私は幸せになるために生きている。」












幸せになるために生きているは、現状不幸なわけではなくより良い幸せを求めるポジティブな言葉と捉えています。


明日には消したくなるだろう稚拙な長文失礼しました。